2008年10月30日木曜日

「誰も責めない」

ある悲しいニュースに対し、非常に不謹慎だか久しぶりに心が洗われた。涙が止まらなかった。
8つの病院に受け入れ拒否された妊婦が死亡した問題。
おそらくまた訴訟沙汰になるんだろう、とたかをくくっていた。

でも、奥さんを亡くされた旦那さんは会見で言った。「誰も責める気はない」。

…それでみんなやっと反省するんじゃないのかな。かかりつけの産婦人科医も墨東病院の人も石原知事も舛添大臣も。
私の拙い表現では非常に安っぽく響いてしまうけれど、本当に素晴らしいお父さんだと思った。胸が熱くなった。

「誰も責めない」ー。
その結論に至るまでは、混乱と、葛藤と、無力感と、こちらが想像を絶する悲しみなどがあったに違いない。
でも、ごちゃまぜの感情に任せて発言してしまうと何も解決にならないことも、ご自分の会見の言葉がいかに世の中に影響するかということも冷静に見極められていたのだろう。しかもあんな短期間でそこまで気持ちの整理をつけるなんて。
その旦那さんは、「これで責任を感じてお医者さんが辞めたら意味ない」ともおっしゃっていた。
そして最も心に響いたのは、「将来具体的に何かが変わったら息子に『こうしてくれたのはお前のお母さんだよ』と言いたい。」という言葉。
そんな偉業を成し遂げるべく死に行き、生まれてくるなんて誰が想像しただろうか。胸が詰まる。


誰かを責めるのはおそらくたやすい。
でも敢えて「誰も責めない」とすることで、一気に問題解決に進む力になるのではないか。ていうか、当事者はこれで反省しなければ嘘だ。そしてもう誰かを責めてる場合じゃない。こうしてる間も新しい命と、それを育もうとしている命が危機にさらされているかもしれない。

この旦那さんの会見を見て、色々なことを学ばせていただいた。そして、何か非常事態が起きた時、(明らかに誰かに非がある場合は別だが)、責任逃れをしたり、誰かを叱責することばかりにエネルギーを使うよりは、なぜこういうことが起きたか分析し、また再発防止に向け何かできないか考える人になりたいと強く思った。
…っていってもすぐカッカしちゃうんだろうけど。
でも、いい加減年齢を重ねてるわけだし、もし腹の底で考えてる中身は同じだとしても、それを表現する仕方というものを考えていきたい。

ここでふと「ほぼ日手帳」(大好き!毎年これ使ってます)に載っていた谷川俊太郎氏の言葉を読み返す。
「その人のこれまでの生きかた、危機に際しての決断のしかた、弱者に対する偽善的ではないやさしさ、ゆとりあるユーモアのセンス、知識に頼らないまっとうな知恵などなど、数え上げればきりのない多様な要素が渾然一体となって色気となる」という言葉。
「色気」というのは下世話だろうけれど、このご夫婦は温かくて優しくて、知的で奥深く、非常に魅力的なご夫婦だったのだろうと思う。

息子さんは同級生だなあ。どうぞ健やかに成長しますように。

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